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振り払えない人——あるリーダーの一年
金曜の夕方、会議室に呼ばれた。「来月から、リーダーやってみない?」
断る理由は三つ思いついた。経験がないこと。現場がいまいちばん忙しいこと。そして、自分がそういう器ではないこと。口から出たのは「……はい」だった。
教わったことは、特になかった。辞令と、おめでとうという言葉があって、月曜日が来ただけだった。
最初の数ヶ月のことは、よく覚えていない。自分の作業は減らなかった。増えたのは、メンバーの勤怠と、客先への説明と、名前のよく分からない会議だった。
後輩の成果物を、夜、自分で直した。教えたほうがいいことは分かっていた。でも納期は明日で、教える時間があれば三回直せた。分かっていることと、できることは、違う。
会議で言いたいことがあった。言わなかった。空気が読めてしまったからだ。ドラマの主人公なら、ここで机を叩くのだろう。私は主人公ではなかった。会議室の隅で発言のタイミングを三回逃して、議事録だけ丁寧に取った。
上司への報告の前の日は、あまり眠れない。どう説明すれば通るか、どこを突かれるか、頭の中で何度もリハーサルする。気づけば、メンバーとの雑談が減っていた。
ある日、チームでいちばん頑張っていた後輩が「ちょっといいですか」と言ってきた。退職の相談だった。私は、何も気づいていなかった。毎日、同じフロアにいたのに。
「言っても変わらないよ」と、先輩が言った。その人は昔、会社に提案書を出した人だった。通らなかったらしい。それ以来、出していないらしい。
その通りかもしれない、と思った。私も一度、現場の改善案を上げて、返事がないまま季節が変わった。二度目を出す手が、動かなかった。
転機は、大きな話ではない。
退職を考えている後輩と、時間を取って話した。何か言ってやらなければと思って、言葉を用意していった。でもその日は疲れていて、うまく話せる気がしなくて、代わりに黙って聞いた。
沈黙が続いた。気まずさを振り払えない私は、それでも今日だけは、と待った。
後輩が、ぽつりと、自分の口で答えを言った。私が用意していたのと同じ結論を、私が用意していたよりずっといい言葉で。
その日はじめて、リーダーの仕事をした気がした。私は何も言っていない。待っただけだ。
一年やって、分かったことがある。
私は人の目を気にする。空気を読みすぎる。やりたいことを、うまく言えない。振り払える人間になりたかった。周囲をガンガン動かして、環境ごと変えてしまえる人に。でも、なれなかった。たぶん、これからもなれない。
ただ——後輩の声のトーンが少し変わったことに気づけたのは、誰の力だったのだろう。言葉を選べたのは。声をかけるタイミングを計れたのは。
全部、同じ力だった。人の目が気になる力と、人の変化が見える力は、同じ筋肉だった。
振り払えないことは、リーダーに向いていないことの証明ではなかった。私が振り払えずにいた「気になるもの」の中に、メンバーの顔が入っていたから、私はメンバーを大切にできていた。それだけの話だった。
いまも、全部気になる。人の目も、空気も、通らなかった提案のことも。
だから、振り払わないことにした。全部気にしたまま、今週はひとつだけ動かす。先週は、後輩の直しを一箇所だけ、本人に返した。今週は、季節をまたいだあの提案を、もう一度だけ出してみようと思う。
机を叩く人だけが、物語の主人公なのではない。月曜日に、また出社する人。全員が、そうだ。
この物語はフィクションですが、どこのSESにもいる人の話です。自分の現在地を測りたくなったらリーダーの現在地(8問)へ。つらさの正体から読みたい人は「つらいのは、役だから」へ。あなたの一年にも、名前をつけられます。